MASAOKA

アスペルガー的発想からの独り言から、進歩しました。 https://sns.masaoka.jp/

正岡家の歴史について

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About Masaoka family history.

歴史を調査していて、どうも、歴史っていうのは
家系図の場合だと、生まれた、亡くなった
後、戦争の記録、後、新しい領地、神社、お寺、城を作った記録が、歴史になっている。

正岡会で、マスコミ関係で、歴史の調査をしている某氏、いや某氏としなくても、誰かは分かるが、宗教に関しては、前後の敗戦を生きてきた人に取っては、宗教は、タブーらしい。いや、メディア関係者として、公平な物の見方をするから、あえて、近寄るべきではないと思っているのかもしれないが、人間は、死ぬ以上、やっぱり、お寺とか、神社の宗教がからんでくる。

いくら嫌がっても、初代の経孝は、高縄神社を作った訳だし

その昔は、寺社奉行って、鎌倉、室町、江戸時代では、別の管理だった。
普通ではないところ、わかりやすく言うと、タックスヘイブンみたいな感じで、幕府の直轄領とか、早い話が、権力者の領地だった訳で、その昔、神仏の加護を信じていた訳だ。

ちなみに、越智氏の歴史で、勝岡八幡神社 を 小千御子 が作っている。
正岡家に伝わる家系図 から 河野系図 も、こうなっているが

第七代孝霊天皇 ->  第三皇子 伊豫皇子 ->  小千御子

実は、現在の勝岡八幡神社は、移設してきたもので、元々あった場所は、現在、四国八十八カ所がある。太山寺の場所なのだ。つまり、勝岡八幡神社が、小千命の城、白人(うらと)城があって、応神天皇の御代、小千命は、伊予の国の国司として在任していました。
阿波の国から兇賊がやってきてこの地を襲いました。
小千命は、白人(うらと)城に拠って、兇賊を討ちとり里人(さとびと)の危急を救いました。
そして、その兇賊たちは、この白人城に捕らえられてといいます。

龍雲山 護持院 太山寺 りゅううんざん ごじいん たいさんじ
開基は、六世紀後半 (587)、崇峻天皇時代、「越智」の名前が突然歴史に現れ始める時です。現在の名前になったのは、天平11年(739)に聖武天皇の時
聖武天皇の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にし、龍雲山 護持院 太山寺となりました。
神の力を、仏の力で、封印しようとしてのかは、わかりませんが、小千命の子孫の河野氏が、お寺を再建しているので、神聖な特別な場所だというのは、間違いはないでしょう。

家系図より 抜粋、現代語訳
白人の城に蔵(おしこめ)る 且つ御子の神霊を其の戦場に祠り 勝岳(かつおか)大神と崇める

では、現在の位置に、いつ引っ越しをしてきたかというと
永享年間戦火で焼失の後、現在の地へ遷宮と同時に宇佐八幡を勧請し名を勝岡八幡宮と改称しました。
小千命は、大浜八幡神社も作ったのですが、両方とも、宇佐八幡を勧請し、名前を八幡大神に変わってます。つまり、越智常世織姫 が 八幡大神 へ 変えられてきたことで
500年後半から始まった、姫の封印を、何度も何度も行っているのです。

越智氏 小千御子の姫で、越智常世織姫は、宇佐家にさらわれます。
宇佐家は、八幡神社の総本山なのです。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_usa.html

だから、越智氏ゆかりの神社の、神紋が、三つ巴な訳なの、分かりました。
このあたりの話は、万葉集とかにも出てきます。ほとんど神話の世界みたいな話なので、きちんと、再検証と、分類調査してみたいと思います。

あと、正岡家って、神社とか、お寺だけではなくって、お墓に、十字架を彫っているのもありました。いわゆる隠れキリシタンっていうやつです。愛媛県今治市玉川町のあたりって、たまに、そういうのを見かけたりした記憶があります。愛媛にいたときは、ただなんとなくって感じで、気にもとめてなかったんですが、そこらあたりも調査する価値があるかもしれません。

いわゆる文化っていうやつですね。

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